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魔女の秘密

太陽と風と夜の国より『魔女の秘密』。魔性の女の正体とは?

1996.01.01


魔女の秘密

都内某所のマンション

空気が冷たくなり始めた10月のある日、マンションの様子は、3日前と何ひとつ変わらなかった。スチール製のロッカーに吊られたたくさんの衣装、どこにも収め切れず床に並べられた箱のままのバッグや靴、反対の壁にはポップアートのリトグラフ。ケイコは、イエローの針金細工のようなリビングテーブルの上に、いつの間にか置き捨てられた茶封筒(たぶん、現金と「キゲンを直せ」と書いたメモが入っている)をちらりと眺めると、いっそう幻滅の気分に駆られて寝室に入った。

ベッドには、脱ぎ捨てた部屋着がそのままになっている。さっきサイドボードに投げ出したスマートフォンは、何件かのメッセージを知らせるべく忙しく点滅している。苦々しい思いでそれから目を背けると、彼女は鏡台に向かい、自分の顔を覗き込んだ。
(まるで、泣きべそをかいている子供みたい)。そこには、珍しく素顔の彼女、まだあどけない22歳の娘の顔があった。それも情けないような今の気分をそのまま表わしている。
突然、電話の呼び出し音が響く。鏡の中の顔は、いっそう不安気に曇った。コールは、2回で、途切れた。
ケイコは、大急ぎで鏡台の下から化粧道具の入ったケースを取り出して、開いた。幾種類ものルージュやファンデーション、画家の筆箱よりもたくさんの大小の筆や刷毛、今すぐ手術が施せそうなほど様々な形状の金属製の小道具たち。そこには男には決して理解できない魔法のアイテムがぎっしりと詰め込まれており、そして唯一、それはこの部屋の中で彼女の本当の持ち物なのだった。

(仕方ないのよ)。ケイコは、鏡の中の、今にも泣き出しそうな少女に言い聞かせるように心の中でつぶやいた。少女の哀切な苦悩に歪む表情は、明らかに諦め切れない愛情を物語っている。

3日前

リバーサイドのホテルのイタリアンレストラン。午後10時過ぎ。窓際の席は静かに孤立している。
『表向きは、会社の人間だと言っておけばいいだろう。』
男は、自分が出席するパーティに彼女を連れていくと、さも、当り前に言った。
『いやよ。』
『何でさ。』
『あたしには関係ないもの。』
『頼むよ。2、3時間、顔を出してくれればいいんだぜ。』
『自慢したいの?』
『そうだよ。』
『でも、あなたには奥さんがいるじゃない。あたし、見世物になるのはいやだわ。』
『僕が頼んでいるんだぜ。今日だって、せっかく・・・』
『なによ。』
『わざわざ外で待ち合わせたんだよ。君のために。』
『お願いしたわけじゃないわ。』
『少しくらい言うことを聞いても・・・』
その言葉に、ケイコは(呆れた)というニュアンスを読み取った。
もう、我慢できなかった。男は、彼女に支援の代償を要求しているのだ。もう、男の好意は、彼女が素直に受け入れられる愛情ではなく、打算に満ちた取り引きの道具でしかない。そして、何より彼女が金銭的な支援を受けていることに負い目を感じさせる態度が許せなかった。
《あまりに暑かった15歳の夏の午後、誰か不良の青年が、よく冷えた缶ジュースを黙って彼女に差し出した。そういうものだけが彼女が素直に受け取れるものだった。》
『面倒だと思うなら、付き合わなければいいじゃない。』
彼女は、そう言い残して席を立った。

化粧

いつもより白い色で丹念に肌を塗り始める。鏡の中の少女は、まだ目で訴えている。(あのひとが、あのひとが)と。
鏡を見つめている方が(誰かの持ち物になって暮らすなんてご免だわ)と、突っぱねる。頬の位置を変えるように、紅を差し、陰をつける。眉を、細く、長く、気丈に描く。まつげをしっかりとたわませ黒を乗せる。目尻に強いアクセントを描く内に、哀しげな少女は姿を消し、いつしか毅然として、何もかもを軽蔑したような見知らぬ女が姿を表わす。深い色の口紅で厚く描いた唇。そこに居るのは、失意の少女でもなく、ベッドサイドの写真立ての中で男と微笑んでいる女性でもなかった。
鏡の中の冷めた眼差しはつぶやく。(本当は、無償で注がれる愛情などあり得ないかも知れない)と。実際、それは、もう、思い出の中にしかないのかもしれなかった。(でも、あたしは、負けないわよ)。

化粧道具のケースの中に、ハンドバッグから必要なものだけを移す。どこにいても、誰かを魅了するであろう、軽快でしたたかな美しさを備えた女は、パタンとケースの蓋を閉じると、それだけを持って部屋を後にした。




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