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悪戯

『太陽と風と夜の国』より、『悪戯』です。主人公の過ちとは?

1996.01.01


悪戯

一 ミス・アンドロイド

彼女が現れたのは、高校二年生の二学期のことだった。ミス・アンドロイド。それが、僕たちが新任の女教師につけたあだ名である。
冷静で、潔癖、完全主義者。そう言うと、口うるさいオバサンを想像するかもしれない。しかし、そうではなかった。
夏休みが明けると、何かの事情で前任の教師の姿がなかった。その代りに入ってきたのが、この春に有名公立大学の修士課程を卒業したという、まだ若い彼女である。決してインテリじみておらず、しかし新人らしい上っついたところもなかった。
「高校時代は、高二まで部活一辺倒。勉強もあまり好きではなかったの。だけど、どうせ受験勉強をするなら、精一杯やりたいと思って、目標を高く置いたら入れてしまったのね。受験なんて分からないものよ。」
そう彼女は自分の経歴を、隠しも、気取りもしないで言った。いつでもそんな風に、生徒と同じ目の位置で、しっかりと自分自身の言葉を語るので、間もなく彼女は、一教師としてではなく、ひとりの人格として生徒の中に意識され始めた。こうなると生徒も話を真面目に聞くし、影響も受ける。出来の悪い連中が影で囁く時ですら、『彼女』という言葉を使った。つまり、人間として認めていたのである。それに彼女は、凛と咲く、一輪のコスモスのように若々しく、美しかった。
ミス・アンドロイドとは、彼女が持つ、厳かで、完全な性質そのものに親しみを込めて用いられた名前だった。
一見、教室は何も変わらなかった。しかし、以前、古株の中年男が担任だった頃と比べると、どことなく空気が清潔になったようだった。

二 理想主義者

僕自身にとって、ミス・アンドロイドは、何ら特別な存在ではなかった。敬意も、悪意も抱くことはなかった。ただ、僕にはクラス委員という肩書きがある都合で、普通よりは頻繁に接する機会があった。
彼女は、決して命令口調も、高圧的な言い方もしなかった。ものを頼む時には、必ず「悪いけれど」とか「お願いします」といった言葉を沿えるのを忘れなかったし、時には「信頼しているからね」と言った。僕は、その穏やかな態度の底に、実は、完璧さを求める者の自信が秘められていることに、気づいていた。
何であれ、信念を持つ人の強さを彼女は備えていた。
家族や恋人の人柄や癖が似るように、強い性格は感染する。教室の空気が清潔になったのもそのせいだったに違いない。
その正体は、或る種の理想主義に他ならない。けれど、彼女が「信頼」というものを信じ、僕によく頼みごとをするのは、面倒ではあったけれども、それはそれで、うまく行くのだから構わないことだ。
こんな風にしばらくは確かに何の不都合もなかった。しかし、それはわずか二学期の数ヵ月間だけのことだったのである。僕は、冬休みが始まって早々の或る日、明らかに彼女の影響による不利益を、経験しなければならなかった。

三 感化

切り出したのは、春以来、付き合っているクラスメートのN美だった。
N美は、陸上部の短距離走者だった。しなやかで美しい身体と巨きい瞳を持っていた。生徒会にも出入りをしていた。
待ち合わせたデパートの屋上で顔を合わせて、まだ十分も経っていなかった。決して隠し事をしない瞳で僕を見て言った。
「このままじゃいけないと思うの。」
「どうして? 何もかもうまく行っているじゃない?」
実際、問題も無いはずだ。週2、3度、一人暮しの僕の部屋で快い時間を過ごしたり、週末の日中に一緒に外に繰り出したりするのは。学校や家庭で問題になるようなヘマは何一つしていないのだから。僕は、唐突な恋人の申出に驚いて、問い直した。
「今のままの、どこがいけないというんだ?」
「何故、そんなに驚いた顔をするの? あなたにも分かっているでしょう?」
「何がさ?」
「気持ちのことを言っているのよ。今のまま、付き合っていても何も残らないでしょう? それでいいの?」
「どうしてそんなにキッパリとしたがるの? せっかくうまくやっているのに?」
「そういう曖昧なのが嫌なのよ。きちんと目的とか持って生きたいの。」
その時、教室と同じ清潔な風が、さっと吹いた気がした。僕は、ふと彼女の心境の変化を理解した。僕の目には、恋人と女教師の姿が重なって映っていた。彼女とミス・アンドロイドとの接触機会は少なくなかった。具体的な相談事があるか無いか分からないが、彼女は感化されたのだと直感した。僕は、女教師に語りかけるつもりで彼女に問いかけた。
「それに夢とかね。でも、いったい何の夢を見るの?」
「分からない。でも今のままじゃ嫌なの。」
「きちんとしたいんだね。」
「そうよ。」
「それが、もう、幻だとは思わない? 楽しめる時に楽しむべきだよ。」
「ううん。ダラダラしてるよりは、いいわ。」
僕の心に残ったのは、彼女のうなじの線や、情事の後の乾いた微笑みだった。突然、お気に入りの玩具を取り上げられたような、釈然としない気分だった。

四 策略

N美と別れたからといって、僕の生活が影響されることはなかった。ただ、新しいパートナーの少女Y子は、家庭が厳しくはなかったので、夜出歩くことが多くなった。幼い頃から母子家庭に育った彼女は、小柄で華奢な身体に男の表情をよく読む術を身に付けていた。しかしやはり、僕が気に好っていた顎の線や、よく変わる目の表情は、N美だけのものでしかなかった。Y子とは身体を合わせることはあっても、お互いの気持ちに距離を感じていた。

冬休みの或る夜、まだ11時を少し回ったばかりの時刻だった。
賑やかな商業街の明るい目抜き通りを少女と歩いていると、100mほど先の映画館から、見覚えのある女性が出てくるのに遭遇した。
地味なデザインだが、ブランドもののスーツを着たミス・アンドロイドだった。
僕は思わず、頭の上のサングラスを、顔を隠すように掛け直した。
アンドロイドの後から、年の違わないスーツ姿の男が現われた。彼らは、腕を組んで歩いて行った。僕は、少女を脇に連れたまま、ぶらぶらするような歩き方で後を追った。
目の前のカップルは、暫く行くとタクシーを拾い、女性だけを乗り込ませた。男は、タクシーが行っても、その場に、まだ立ち尽くしていた。
僕は、うろうろ辺りを見回してばかりいる少女の肩を叩いて関心を呼び起こした。
「何? どうしたの?」
「ほら、あいつ、あいつは今年まで○大学にいたんだぜ。」
僕は、自分の推測を、いかにも確かなことのように告げた。
「ふうん。すごいね。知っているの?」
「いや、前に、居酒屋で見かけたくらいさ。でも、彼女を欲しがってるんだって。」
「へぇ。」
「声、かけてみなよ。きっとうまくいくぜ。」
「うそ。本当に?」
ふと閃いた犯罪の魅力に、僕は憑かれたように言った。
「でも、高校生じゃ、きっと相手にされないから、年ごまかして。」
「いいの?」
「うん、俺、今日は寄る所あるし。じゃあね。」
「じゃあ。」
ようやく歩き出した男の後を、少女は、半信半疑の様子で追いかけて行った。

五 失策 

三学期が始まったが、学生生活は以前と何も変わらなかった。
女教師からは、相変わらず頻繁に頼みごとをされた。僕は、それを嫌な顔一つせず請け負った。とうに、彼女を恨むほどの気持ちはなかったし、態度に示した所で何にもならないのだから。そして一ヵ月以上が過ぎた。
或る晩、受話器を取ると懐かしい声が響いた。いつか冬休みの夜、僕の愚かな策略のままに男を追いかけて行った少女だった。
(やぁ、久しぶり。どうしたの?)
(今、あたし、××さんと付き合っているの。)
(××?)
(あなたが教えてくれた○大の卒業生よ。)
(本当に?)
(えぇ。最近、あたしも本気になってきちゃって。いい人よ、××さん。)
僕は、すっかり忘れていた。それなりに毎日を快適に過ごしていたから。正直、筋書通りになるとは考えていなかった。少々複雑な気分だったが、小娘に簡単に引っかかる男なのだから、どうせミス・アンドロイドは、いつか裏切られていただろう。その時期が、若干、早まったに過ぎないのだ、と考えた。

六 変化

あくる日から、僕は少しだけ注意深く、ミス・アンドロイドの様子を観察するようになった。女教師は、いつもとほとんど変わらない完璧ぶりを発揮し続けていた。教室は、以前にも増して清潔な空気で満たされ、事実、学年でもっとも優秀なクラスになっていた。しかし、間もなく、本当に微かにだけれど、ミス・アンドロイドの態度に変化があることに気付いていた。
例えば、或る放課後、配布物を取りに人気の無い教官室に行くと、机の上に疲れたようにつっぷしている彼女の姿に出喰わしたことがあった。それに、ごく稀には、いつもの落ち着いた自信のある話ぶりではなく、何か頼りない声で(本当に、あなたがいて助かるわ)などと言ったりした。
しかし、僕は悪いことをしたとは思わなかった。ただ、世の中に、夢だけでは片付かない、どうしようも無いことがある、ということを、彼女は理解するだろう。彼女が、それに立ち向かうのか、それとも諦めるのか、僕の知ったことではないのだ。

七 三学期

二月、どんよりとした空模様の寒さの厳しい朝だった。机に頬杖をついて窓の外を眺めながら、僕は(雪が降らないといいな)と思いながら、朝の教室にミス・アンドロイドが登場するのを待っていた。
ガラリと引き戸が開いて現われたのは、貧相な小男の教頭だった。
「――先生は、お身体の調子を悪くされて、暫く入院されることになりました。当分、私がホームルームの担当を努めます。」
全身に悪寒が走った。不吉な推測が脳裏をかすめた。

八 病院

クラス委員でもあり、最も女教師と親しいと思われていたので、僕がミス・アンドロイドの見舞に行くことになった。それを学校から許されたということは、彼女が、実際に病んでいたということの証拠だった。あるいは入院以前、彼女が疲れた様子をしていたのも、恋愛が原因なのではなく、本当に身体の不調のせいだったのかも知れなかった。
春休みの数日前、僕は、午後から病院に赴いた。何故か、朝からその訪問を心待ちにするような気分だった。ミス・アンドロイドの顔を、久しぶりに見られるのが願ってもないことのように思われた。

大学病院の病棟の広い廊下を、部屋番号を確かめながらゆっくりと歩いていく。台車に点滴をぶらさげたまま歩く老人と擦れ違う。その向こうから、平服の初老らしい夫婦が、看護婦に支えられるように歩いてくる。夫の表情は力なく、妻は今にも崩れ落ちそうになりながらハンカチを目に当てている。(病院は、色々な形の不幸、どうしようもないことに直面する場所なのだ)。気が引き締まるような思いで、夫婦と擦れ違う。と、間もなく教えられた病室の札を見つけた。

九 夢

「あら、――君。」
相部屋のカーテンの仕切の奥で、半身を起こすようにしていたミス・アンドロイドの姿に、僕は、息を飲んだ。ほんのわずかな期間で驚くほどやつれ、目が大きくなった姿は尋常ではなかった。とても、かつての花のように凛とした面影はない。それでも、彼女は取り直すような声で言った。
「いま、丁度ね、郷里から両親が来ていたの。少し疲れが溜まっただけなのに、大袈裟なのよね。」
擦れ違ったばかりの初老の夫婦の姿が目の前を通りすぎた。僕は、花束を渡す手が震えないようにするのに懸命だった。あまりにもやつれた彼女の姿。その肌は余りにも白い。酷い変わり様だった。
「あと一週間もすれば退院できるのだけれど、新学期には、間に合わないみたい。内臓にも負担がかかっているので、実家に帰って静養しなければならないと、言われているの。」
彼女は、問わず語りに僕に状況を伝えた。恐らく、これまで安心して話せる相手がいなかったのではないかと、僕には思えた。その眼差しにも、声にも力がなかった。そこからはひしひしと彼女の孤独と絶望感が伝わってきた。口にする言葉とは裏腹に、彼女が自分自身の体調の深刻な異変に気付いていないはずがなかった。彼女は、疲れたように身体を横たえた。
胸の奥で、僕は必死に、衝撃に耐えようと努める。何ということだろう。僕が手を下すまでもなく、運命は、彼女の夢を裏切る残酷な仕掛けを用意していたのだ。
もしも僕が愚かな計略を実行しなければ、深刻な病魔が発覚するまで、絶望を知らずに済んだだろう。その後も、少なくとも支えになる相手がいたはずだった。
「でもね、体調が整ったら夏期講習だけでも皆の所に帰るからね。受験でたいへんな時だものね。」
彼女は、やはり夢を見つづける目に信頼を篭めて、僕をまっすぐに見つめて言った。
「ぜひ、そうしてください。」
僕は、思わず彼女の手を強く握り締めていた。二度と取り返しのつかない罪と恐れを、少しでもあがなうために、僕には、そうしているしかなかった。




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