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吸血鬼

ネットの草創期に『太陽と風と夜の国』という物語のサイトを開設していました。そちらより、『吸血鬼』です。何も起きないけれど、何かが変わってしまう。そんな物語です。

1996.01.01


吸血鬼

男の部屋

遠くに踏切の警報音が響く。最後の回送電車が通り過ぎる振動に、部屋の曇り硝子が微かに震えた。薄暗い部屋の中で、彼の腕にわずかな重みを与えて眠る女の顔を眺めながら、ヒロシは32年間の生涯の中でもっとも幸せな時間を過ごしていた。
たおやかな丸みを帯びた額に、真直ぐに走る眉。涼しく切れ込んだまぶた。すっきりと通った鼻筋。控え目な頬から繊細な顎に続く輪郭。
まだあどけなさの残る彼女の容姿に、彼は(完璧だ)と、心の中でつぶやいた。その完璧さは、彼にとっての女性の美の基準だった。振り返れば、これまでに経てきた色恋沙汰のすべては、たった一つの美しい容姿の面影に支配されてきたのかも知れなかった。彼が付き合った相手は、皆どこかしら似た印象を与える女だったのである。彼はそれを“タイプ”という言葉で簡単に片付けてきた。それでいて誰かを真剣に愛したこともなかった。恋愛の結末には、いつも彼自身の投げやりな態度が思い当たる。
しかし、いま、目の前には長年探し続けてきた、美しさそのものがあった。彼は、深い満足の中で、いつしか眠りについた。

ふと目覚めると、いつの間にか明りが灯っていた。部屋の中を見渡すと、隣に眠っていた女は、ブラウスだけを羽織った格好で、テーブルに向かい缶詰の蓋を開けようとしていた。
「お腹、空いちゃったの。」
ヒロシは、安堵感に小さく笑うと、ぼんやりとした頭で今しがた見た奇妙な夢を思い出していた。それは、彼がごく幼い時分、3歳か4歳の頃に、実家の庭の片隅で、彼女の口づけを受けたという夢だった。(そんなことある訳がない。もしも、いつか彼女と出会っていたとしても、あまりにも歳が離れている。彼女だって、今のままの姿のわけはないだろう。)
馬鹿なことを考えたな、と、もう一度彼女の方に振り返ると、彼は奇妙なことを発見した。男の独り暮しらしく彼の部屋には大きな姿見など無いのだが、片隅に据えた髪を整える小さな鏡に女の姿が映っていないのだ。(角度の加減かな)そう思って鏡に目を凝らす。
そして、女の位置を確かめようと彼女の姿を探した時、そこにあるはずの女の姿はなかった。鏡の中と同じように、ガランとした寂しい部屋の景色だけが広がっていた。

(もしもこの出来事が、怪異の仕業だとすると・・・)男は複雑な気分で思考を巡らせる。(俺は、首筋からは一滴の血も奪われなかった。けれど彼女は、これからの俺の人生が、これまで以上にやるせないものになるだろうという、確信を残して去ってしまった。)




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